今日の法話2019/07/26
「念仏者は無碍の一道なり」
三年ほど前、ピロリ菌の除菌を行ってから、一年に一度、胃カメラ(実際には、経鼻内視鏡(鼻から挿入する内視鏡)でモニタテレビに食道・胃・十二指腸の内部を写し出して直接観察し診断する検査)を岡山市の大きな病院で行っています。(因みに今年も異常なしで、安堵しています。)
ところで、病院内の内視鏡センターには内視鏡室が数室あり、その前には長椅子が置かれていて、そこに座り、診察室に入るまで少し不安な気持ちであたりをキョロキョロと見回していました。ドアの前にはドクター名、部屋番号が記載されていましたが、私の部屋は1番、どのくらい診察室があるのかと部屋番号を見ながら数えていくと、1・2・3.....
あれ?4が無い‼
病院では4の数字は死を連想し、忌嫌うことは聞いてはいましたが、それを目の当たりにすると何とも残念な気持ちになりました。
4の数字を4と4を合わせて「しあわせ」と読み、3の数字を3と3を合わせて「さんざんな目にあう」と読んだら4は良い数字、3は悪い数字になります。
最先端の医療技術や科学技術を研究し、最新機器を駆使して患者に治療を施している病院が単なるゴロ合わせでしかない数字を忌避せざるを得ない現実に人間の危うさを感じます。
タブーのことを禁忌と言います。
分かりやすく言うと、恐れないでいいものを恐れることです。
日の良し悪しにとらわれる。方角の良し悪しを心配する。
手相、家相、墓相といった、まったく恐れなくていいものを恐れること。
数字の良し悪しもすべて、タブーです。
そして、このタブーは親鸞聖人の頃、鎌倉時代も存在していました。
親鸞聖人は、こうした人々の姿を悲しまれ、
「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅっかい)」で、
かなしきかなや道俗の
良時吉日(りょうじきちにち)えらばしめ
天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ
卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす
(悲しいことだ、僧侶も世俗の人びとも、良い時、良い日にとらわれて、天の神や地の神をあがめつつ、占いや因習に余念がない。)
と嘆かれました。
私たち念仏者は、因果の道理を踏み違えず、如来様に育まれている身を喜び、迷信などに人生を左右されることない生き方をしなければなりません。
親鸞聖人は念仏者の道を無碍の一道とお示しくださいました。
何事にも妨げられない道を念仏と共に歩ませていただきましょう。