今日の法話2026/05/10
『法(のり)の友』
私たちはよく「死んだらまたあの世で会おう」と口にしますが、仏教の厳しい視点から見れば、それは決して簡単なことではありません。
そこには「バラバラの行き先」という現実があります。
お釈迦様は、私たちは自らが造った「業(ごう)」によって、一人ひとりが別々の世界へと生まれていくと説かれました。これを「独生独死・独去独来(どくしょうどくし・どっきょどくらい)」といいます。
これを現代にたとえるなら、「行き先の違う列車」に乗っているようなものです。家族や夫婦であっても、それぞれが自分の「業」という切符を持ち、ある人は東へ、ある人は西へ。死という駅を境に、二度と会えない、バラバラの方向へ向かってしまう。それが私たちの本来の姿なのです。
そのような孤独な私たちを思い、「ひとり残らず浄土へ連れて行こう」と立ち上がってくださったのが阿弥陀様です。
親鸞聖人は、この阿弥陀様の救いを「難度海を度する大船」とお示しくださいました。
私たちが苦悩の人生である難度海で、「阿弥陀様にお任せします」と信心をいただくことは、バラバラの列車を降りて、阿弥陀様の大きな船に、大切な方とともに乗せていただくということです。
自分の力(自力)で泳ごうとすれば、罪の重さに沈んでしまいます。しかし、この大きな船は、どのような者であっても、そのまま乗せて浄土へと運んでくださいます。
永遠の別れであったはずのものが、「しばしの別れ」として受けとめられるようになるのです。
念仏弾圧により、親鸞聖人と法然上人が流罪によって別れなければならなかった「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」の折、法然上人はこのような歌を詠まれました。
「別れ路の さのみ嘆くな 法(のり)の友 また遇う国の ありと思えば」
浄土という再び遇える場所があるのだから、そんなに嘆くことはない、というお心です。悲しみに沈む親鸞聖人へのお言葉でした。
同じ船に乗せていただいた「法の友」であるならば、先に往かれた方も、後から往く私たちも、行き先はただ一つ、浄土の蓮の上です。
今の別れは、永遠のさよならではありません。
「先に往って待っているよ」「あとから必ず行くからね」そのような、しばしの別れへと変わっていくのです。
阿弥陀様の大船にともに乗せていただいている安心の中で、亡き方を偲び、ともにお念仏申させていただきましょう。